決然と相対主義を貫く

きれいなまとめだわ

「大きな物語」が失効する。これによって「私の生きる意味」が与えられない状況になる。つまり、「モノがあっても物語のない社会」「自由で冷たい社会」となる。

そこで、どうやって生きていけばいいのか分からなくなって引きこもる、というのが、「心理主義/ひきこもり」的な「90年代の想像力」である。それを最も端的に描いていたのが『新世紀エヴァンゲリオン』であり、それの堕落形態が「セカイ系」と呼ばれる作品群である。本書は、この「セカイ系」を批判していくというのが、基本的な姿勢となっている。

さて、「私の生きる意味」が与えられない、というのはもはや所与の前提であるが、だからといってひきこもっていたとしても、一向に生きていくことはできない。そこで、無根拠でもいいので、とりあえず何らかの「生きる意味」をあえて選択するのが「決断主義」。そしてこの「決断主義」は、バトルロワイアルを伴う。つまり、その「生きる意味」は、何かによって正当性が与えられているわけではないので、他の人のそれと衝突してしまうから。このバトルロワイアル型の「決断主義」も、それはそれで息苦しい。暴力の連鎖を無制限に拡大していくことになるし、とりあえず選んだ「生きる意味」が、バトルロワイアルに負けることによってキャンセルさせられてしまうことも織り込まなければいけないから。

決断主義/バトルロワイアル」が、一応「ゼロ年代の想像力」ということになるのだが、この本は、それもまた批判対象としている。

セカイ系」も一種の「決断主義」であるので、「セカイ系」「決断主義」が共に批判対象となる。

「私の生きる意味」が与えられない状況において、「セカイ系」と「決断主義」という二つの適応があるが、そのどちらもあまりよい選択肢ではない、というのが宇野の診断である。

で、決然と相対主義を貫けば糸思った。妄想だけど。処方として「セカイ系」は痛いので「決断主義」ってなるけどバトルロワイヤルが当然に帰結するのか?って疑問。決断主義相対主義を親にして実装すればいいんじゃね?って思ったら京大の国語の問題の解答のテンプレになります。
高校の時、
国語の先生に「あまりに不安な生き方だよぉ?」ってつっかかったら「それは弱さだ」って自信なさげに返された
世界史の先生が「次の100年は闘争の世紀になるかもしれない」って
数学の先生が「同じ問題を見方を変えて考えろ」って口酸っぱく
I remenber.
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